易や唯識やユングへの興味はイメージの活用という共通項から来ています

岡野守也著「仏教とアドラー心理学」(佼成出版社)から、アドラーの心理学の特徴を知りました。

それに伴い、イメージを活用したユングの心理学の特徴も、私の中ではっきりしました。

河合隼雄さんの「ユングと心理療法―心理療法の本〈上〉」(講談社プラスアルファ文庫)に次のような箇所があります。

「たとえば、ずいぶん以前のことであるが、第一回の面接後に、夢の中で見た治療者が異常に大きい耳をしていたことを報告した人があった。

「私は聴いてばかりいると思われたのでしょう」というと、その人は笑いだして、そのとおりですと答えた。当時は、非指示的カウンセリングが流行しており、何も答えてくれないカウンセラーに嫌気がさしたその人は、「分析家なら、もっといろいろいってくれるにちがいない」と思って、筆者のところにきたというのである。」

この例では、患者さんが夢で見た「大きな耳」について、カウンセラーが「私は聴いてばかりいると思ったのでしょう」とイメージを解説した結果、患者さんが心を開いて治療が進展したことを示しています。

ユング派心理療法のこのようなイメージの活用について、私はとてもいい印象を持っています。

そして私が興味を持っている易は、まさにこのようなイメージの活用を必要としますし、同様に私が興味を持っている唯識仏教の教義も、このようなイメージの活用が理解を助けてくれます。

昨日もブログに書きましたが、ネットには易とユングの共時性が、唯識仏教とユングの集合的無意識が、それぞれ関連するものとして説明されています。

私が以前より易や唯識仏教やユング(と河合隼雄さん)に興味があったのは、イメージの活用という共通項のためだと思っています。